薩摩錫器の世界
薩摩錫器の歴史や、薩摩錫器とゆかりのある薩摩の偉人についてご紹介いたします。
薩摩錫器360年の歴史
1.薩摩錫器のルーツは、1656年、八木 主水佑元信(やぎもんどのすけもとのぶ)によって谷山に錫山が発掘されたことに始まります。
錫は、人体に害がないうえに、融点が低く、加工しやすい金属であったことから、飲食器や工芸品、大砲の砲身に利用されるなど、幅広く利用されていました。
この発見は、薩摩藩に大きな利益をもたらすことになりました。
2.錫器は、町人文化の中で高級感のあるものとして武家や商人の間で使われていたものと思われます。
庶民が生活用品として錫器を利用するようになったのは明治以降です。
技術の向上もあり、鹿児島ではどこの家にも何種類かの錫器があるまでに普及し、地域特性に根差した伝統文化となりました。
しかし、錫が戦争による軍事物資となってからは、その入手が困難となり、業界は大きな痛手を受けました。
その後、原料はマレーシアから輸入された物を使用するようになります。
3.大正5年、国分で焼酎工場の蒸留冷却用錫管を手がけた当社始祖の岩切登一郎は、息子登六を弟子入りさせて、錫器の世界へ門戸を開きました。
登六は錫器を日本を代表する工芸品に高め、1933年のシカゴ万博では、日本の多くの工芸品の中から唯一、賞に輝くことになりました。
戦後、錫業界が縮小していく中で、登六は国分に帰り作業場を開き、数々の展覧会に錫器を出品し、工芸品としての地位を確立しました。
4.その後、錫器製造は国分の地で子へ、孫へと引き継がれ、従来の「白地(磨き)」肌から、温かみのある「梨地」の肌合いを完成させ、さらにデザインに優れた「吹雪」技法など、現代的錫器の開発も手掛けるに至りました。
今日では、薩摩錫器工芸館として、伝統の薩摩錫器を受け継ぐとともに、日本の錫器技術を担う製造元となっています。
薩摩錫器とゆかりのある偉人
大久保利通(おおくぼ としみち)
天保元年8月10日〜明治11年5月14日 (1830〜1878)
鹿児島生まれの政治家。
西郷隆盛、木戸孝允と共に「維新の三傑」と称され、日本の近代化に力を注ぎました。
その大久保が愛用していたのが、錫製の茶壷。
100年以上の月日が経ってから発見された大久保の錫製の茶壷の中の茶葉の香りや味がいささかも損なわれていなかったというエピソードからも錫器の密閉性の高さがうかがえます。